聞くことの空気について考える 3

聞く空気について2点あげた。
一つは、様々な手だてをとってきたということ。
もう一つは、聞くことの価値付けを行って来たこと。
この二つが大事で、片方だけではきっと聞く空気は生み出されないだろう。
しかし、実は、もう一つあると考えている。
それは、担任の在り方である。
その1、その2と書いて来たけど、実はこのことを言いたくてずっと書いて来た。1・2は前ふりのようなものである。

先日、『「待つ」ということ』鷲田清一著(角川選書)を開いた。
その1章「焦(じ)れ」を読んでガツンと頭にきた。


<待つ>は偶然を当てにすることではない。何かが訪れるのをただ受け身で待つということでもない。予感とか予兆をたよりに、何かを先に取りにゆくというのではさらさらない。ただし、そこには偶然に期待するものはある。あるからこそ、なんの予兆も予感もないところで、それでもみずからを開いたままにしておこうとするのだ。


筆者が言いたいこととはずれているのかも知らないが、この章は、自分の姿のまずさを指摘してくれているような、そして在り方を示唆してくれているような、そんなメッセージを感じた。

私は、すぐに求めてしまう。これだけやったのだからと期待してしまう。
その思いがきっと子どもたちに伝わっているのだと思う。重い想い。
期待すればするほどその期待が遠のいてしまう。そしてその期待の喪失を埋めるために、次の機会には期待を上乗せする。悪循環。

もともとの私の姿はこのようなものだ。
だから、学級全体での話し合いになるとなかなか話せない子がたくさん出て、一部の子がなんとか話しているような、学級の雰囲気が沈滞している様子が繰り返されていた。
でも、この本を読んだことによって、少し自分の在り方が変わったような気がしている。

求めすぎない。期待しすぎない。自らを開き続けようとしている。

自分の考え方を変えてみることにした。すると、学級の雰囲気も変わってきた。自然な感じが増えたような気がするのである。話し合う姿も少し変わったような気がする。
こんな変化が見えて来たタイミングで教務主任が表れた。ただ、それだけである。変化の兆しが見えて来た、そんなタイミングでたまたま教務が見たということだけである。

だから、自分のクラスの聞く雰囲気・話し合う雰囲気が凄いなんてこれっぽっちも思っていない。
ただ、変化の兆しが見え、その変化の要因であろうということが見え始めて来たということだけである。


今でもちょいと油断すると、求めすぎる自分がいて、あっという間に教室は残念な雰囲気になってしまう。