100点満点の授業があるという幻想[校内研修・研究]

公開授業における検討会においては,色々と陥りがちな問題があります。

その中の一つが,「100点満点の授業があるという幻想」です。

授業というのは,複雑な事象であり,見る人によってそれぞれ解釈が違いますから,万人が納得する100点満点の授業なんてそもそも存在しないのです。

また,その授業の背景にはその学級を構成するメンバーがおり,その学級の学びの文脈があるわけです。それを,突然やってきて1時間だけしか観察しない人間にその背景も文脈も理解することはなかなかできないのです。

ところが,授業公開の検討会では,あたかも100点満点の授業が存在するかのように「この授業の課題」「この授業の改善点」が検討されます。それも,それが10月であっても,5月であってもです。

仮に100点満点の授業があったとしても(前段からありえないと主張していますが),5月にそれを求めるのはナンセンスです。なぜならば,その授業はその学級の学びの成長の1過程に過ぎないからです。その公開された授業は,学級の4月から3月にかけての成長物語における5月の章の一コマです。仮に3月の授業が100点であるとすると,5月は60点や70点でいいのではないでしょうか。授業はうまくいくこともあって,うまくいかないこともあっていいのです。もちろん,そのうまくいかないことは,その学級の5月の課題ですので,それを成長の糧としていけばいいのです。
ところが,その課題を,その学級の5月における課題として捉えて検討されている会というのは決して多くないように思われます。たとえその授業が5月に行われていても,10月に行われていても,3月に行われていても,「100点の授業」があることを前提として検討がされているのではないでしょうか。
「う〜む,100点じゃないような〜」,「ここが足りない」「ここが甘い」って。

なぜこうなるのでしょうか?
私は,授業者側にも問題があると思うのです。
授業者も「100点の授業」があるという幻想をもち,1発勝負でそれをしようとしてしまうからです。

でも,そうしちゃうんですよね。これは,卵が先か,鶏が先かの問題。

公開授業は,1発勝負ではありません。
1年間1000時間ある授業の中の1時間であり,日々の授業の中に埋め込まれた1時間です。1年間の成長ベクトルの1点でしかありません。
それにもかかわらず,私たち教師は,その公開授業を日常から取り出し特別なものに仕立ててしまいます。
だからこそ,100点満点の授業が存在すると幻想してしまうのです。

公開授業は,あくまで日常にあるものです。そして検討会は,その学級のその地点での,その学級の学びの様子について検討していくものなのです。