日本の「学校」という箱

日本の「学校」は文科省が提示するカリキュラムで進められています。
そのカリキュラムは柔軟性が保障されていますが,現場レベルで考えると,どの学校も同じような時間,学習内容,システムで運営されています。
その中でも私立は独自性を出しているとこはありますが,公立学校プラスαという感じ。
もちろん,全国をみればかなりの独自性を持って運営されているところはあります。
でも,各市町村レベルでというとそれはまれで,全国にある学校数の何百分の1という割合ではないでしょうか。

学校の運営を同じにすることで,国民に均一的に教育が施され,力量形成の場,階層転化の可能性が保障されてきました。また,国力という視点でもそれが強みとなってきました。
これは戦後の国民の生活,日本の国力を支えてきた要因の一つです。


しかし今,同じにすることの歪みが随分と生じてきているのではないでしょうか。
一人一人は違うという個性を大切にすると言いながら,
同じ時間,同じカリキュラムで学校生活は進められ,
本人の意思とは関係なく集められた数十名(もしくは数人)のメンバーと1〜2年間(もしくは9年間!),同じ教室で7〜8時間生活を共にし,そして同調・協働が求められる。


その場,そのメンバーがどうしても自分に合わないと感じれば,大人は自分のポジションを変えることができます。
職場を変えることができるし,付き合いを見直すことができるし,引っ越すことできます。
一方,子どもにはそれがなかなかできません。
学校を変えることなんてできないし,学校に行かないという選択肢はなかなか選べません(もちろん不登校の子たちもたくさんいて,不登校という選択は保障されていますが,学校に行くことが善とされているなかで苦しみながらの選択です)。学校を変えれば,メンバーは変わりますが,学校生活のペースはほぼ変わりありません。
子どもが学校に行くことに違和感をもち,不安をもち,辛さを感じたとしても,多くの大人は学校に行くことを進めます。学校は不登校の子がいた場合,「登校復帰」を最善とする方針を立てます。
もちろん,その子が安心感をもてるように学校・学級を変えるということは重要だし,それが教師の大切な仕事だと思います。しかし,どの子にも居心地が良い場というのは保障できるのでしょうか?
普通学校の時間,学習内容,大人数の中で過ごす・・・・
こういうシステム自体に辛さを感じる子たちは決して少なくないのではないでしょうか?
大人の姿をみれば,いかに多様な場が必要だということや,多様な場があることでそれぞれの能力を活かせるということがわかります。


「同じさ」で生活が進み,「同じさ」が求められる日本の学校
この生活リズムに合わないという子にとって,なんて学校という「箱」は息苦しいのだろうか。


あの子,あの子・・・のことを思うとつくづく感じます。
そして,自分自身,学校に不適合を起こしているということを感じ,日々過ごしています。
子どもにも,自分の場を変える,選択するチャンスが保障される世の中にしたいなあとつくづく思います。
この学校という枠組みの中で「改善」していくことは重要だし,その効果は否定しません。
しかし,学校という「箱」という枠組み自体をどうして行くのかを考えることが学校で起きている課題の解決に近くのではないでしょうか。
色々な「箱」が用意され,その「箱」を選べるようになることを願います。