『日本辺境論』とアクティブ・ラーニング

『日本辺境論』を読んだ。

日本辺境論(新潮新書)

日本辺境論(新潮新書)

内田は,この本は今までのすぐれた日本文化論の焼き直しであり,内田はこの本の要約は,梅棹忠夫の『文明の生態史観』の引用そのものであるという。


「日本人にも自尊心はあるけれど,その反面,ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは,現に保有している文化的水準の客観的な評価とは無関係に,なんとなく国民全体の心理を支配している,一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は,どこかほかのところでつくられるものであって,自分のところのは,なんとなくおとっているという意識である。
 おそらくこれは,はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と,その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族とのちがいであろうとおもう。」

日本人が,
「ほんとうの文化は,どこかほかのところでつくられるものであって,自分のところのは,なんとなくおとっているという意識である。」
という指摘には「全くその通りだな」と至極納得する。


内田は,日本を中華思想の辺境の地であるとし,日本人を辺境人であるとする。そして,次のように日本人の学びの特性を言及している。

「辺境人は「遅れてゲームに参加した」という歴史的なハンディを逆手にとって,「遅れている」という自覚を持つことは「道」を極める上でも,師に仕える上でも,宗教的成熟を果たすためにも「善いこと」なのであるという独特のローカル・ルールを採用しました。これは辺境人の生存戦略としてはきわめて効果的なソリューションですし,現にそこから十分なベネフィットを私たちは引き出してきました。問題は「その手」が使えない局面があるということです。私たちは辺境人ですから,私たちにとっての問題はつねに「呼ばれたらどう応答するか」という文型でのみ主題化されています。(中略)私たちはつねに「呼びかけられるもの」として世界に出現し,「呼びかけるもの」として,「場を主宰する主体」として,私は何をするものかという問いが意識に前景化することは決してありません。すでになされた事実にどう対応するか,それだけが問題であって,自分が事実を創出する側に立って考えるということができない。」

つまり,日本人は歴史的に外のすぐれたものを学ぶということには優れているが,自分が中心となって新しいものを生み出すという歴史を持っていないということである。

この『日本辺境論』を読み,今の教育改革について思うことがある。
本の学校教育もまさにその姿勢で設計されてきた。すでにある優れた答えをインプットしていくことが学校教育でのスタイルである。これは,明治に作られた学校制度からではなく,江戸の武士の漢文の素読寺子屋での教育のように全近代からのスタイルである。
ところが,このスタイルを変えようという動きが出てきている。そう,アクティブ・ラーニングである。アクティブ・ラーニングでは,学習者の主体的な学びが尊重され,そしてその先には不透明な未来の中,他者と協働しながら新たな価値を創生する力を育成することが目的とされている。
さあ,果たしてこの改革が成功するのか。
日本人のDNAレベルと言えるくらいに脈々と伝えられてきた,「ほんとうの文化は,どこかほかのところでつくられるものであって,自分のところのは,なんとなくおとっているという意識」を払拭し,自分たちで文化を,新たな価値をつくるという意識を手にすることができるのであろうか。
ここでの困難は,日本人教師が辺境人でありながら中華であるということである。つまり,前述した通り「外に優れたものがありそれを学ぶという」という辺境人マインドを持ちながら,一方で,学校文化の中では子供達に対しての中華であるという自己意識である。かつて「学級王国」と揶揄されたように,学級内で最も優れた文化をもつ「王」であると自認する教師がいる。子供達は教師に向い,教師はその優れた文化を子供達に授けることが制度上作り上げられてきた。今でもそれがしっかりと根付いている。その制度やマインドを教師が捨てることができるかどうか。


もちろん,私はこの動きに無責任にいられる立場ではなく,当事者なわけで,公教育の片隅ではあるが,この教育改革にできる限りの貢献をしたいと思うし,日本の教育が変わるということに期待している。