アクティブ・ラーニングの行く末

「アクティブ・ラーニング」という言葉を文科省が打ち出して,どんどんと広がってきています.
アクティブ・ラーニングに関する本も様々出版され,かなり売れているようです.
しかし,世間一般の様子を見ると,誤解しているんじゃないかな・・・と思われることが多々あります.

「アクティブ・ラーニングする」というような表現が多いです.
アクティブ・ラーニングを方法論としてのみ捉えているようです.
その方々の表現を見ると,どうも,アクティブ・ラーニングをすることが目的になってしまっているように感じます.
これだと,「単元を貫く言語活動」と同じ行く末だろうなあと思います.

「「アクティブ・ラーニング」が話題だけど,今までと同じでいいんですよ」という方がいます.
今まで,「生きる力」「単元を貫く言語活動」など文科省は様々な方策を打ち出してきました.
生きる力も,単元を貫く言語活動も,元は同じベクトル上にあります.
要するに,文科省は現場が変わらないから表現を変えて,幾度となく伝えてきたのです.
「今までと同じでいいですよ」ということはありません.文科省は変わってくれと言っているのです.
そして,今回のアクティブ・ラーニングです.
ついに,文科省は大学入試を変えました.これで現場は変わらずにいられないだろうと.
入試が変われば,高校が変わり.高校が変われば,中学が変わります.
大・高・中が変われば,小も影響を受けることでしょう.

では,なぜ,授業を変えるのか.
それは,「世の中の変化がすさまじいから」といことです.
もう,有名な話ですが,今の子供達の多くは,今ない仕事につくということ.
つまり,知識の伝達だけでは今後の社会に通用する大人を育てることはできないという考え方です.
日本は未来への危機感を持っています.
日本の生産力が世界で相対的に低くなってきている上に,超少子高齢化社会が待った無しで来る.
そこを生き抜いていかないといけない.
ということは,世界に通用するエリート社会人を育てないといけないといけないというロジックです.
このような社会背景を知っているかどうかで,アクティブ・ラーニングへの捉えが変わってきます.

私自身としては,一部のエリートを作る必要があるというロジックは賛同できないのですが,今までの知識注入型の学習モデルはどんどんと価値が低くなってくるなとは感じています.また,学習者の主体的・協働的な学習モデルは,「学力」が高い子にも低い子にも価値のある学習モデルで,未来を生きてくには大切な力をつけていくのだと思っています.

今後は,アクティブ・ラーニングの背景,そして,その価値が世の中で広がるかどうかで,「アクティブ・ラーニング」の行く末が決まるだろうなと思います.
でも,「アクティブ・ラーニング」が頓挫したら,また違う言葉が生まれるでしょうね.名前はどうあれ学習者の主体的・協働的な学習へとシフトしていくのは,待った無しだと思います.